Zeiss Ikon Contax その2

Zeiss Ikon Contax S / Carl Zeiss Jena Biotar F2 58mm

約2ヶ月の修理入院を経て無事撮影可能な状態で手元に戻ってきました

落札代金より修理費用のほうが多くかかってしまいましたが、発売当時エポックメイキングだったこの機種を1台再生できたことは、うれしい事です

同機種の開発は第二次世界大戦直前の1938年にドイツで始まりましたが、プロトタイプのお披露目は戦後の1948年、量産・発売は翌年の1949年、東ドイツ(ソビエト地区)側のツァイスイコンからでした

私が入手したものはセルフタイマーの有無やレンズの製造番号から判断すると1951年製、第4世代のC型ではないかと思います

まずはこのフォルム、以降の35mm一眼レフ(SLR)カメラのお手本になるような形ですね

「小型カメラ発展上の一つの理想としていた形式」という表現が当時の製品レビューにあります

このフォルムの基礎になっているのが上部中央に配置されたペンタプリズム!

件の記事には

「小型カメラ設計上今迄類例を見ない画期的創作」

「一眼レフアイレベル(眼の高さで見る)ファインダー」

「プリズマスコープ」

「かくもこじんまりと(原文のまま)美術的に形成された事は全く驚異」

というような表現が並びます

今では当たり前の「正像正立」が如何に画期的な事であったかがうかがわれます

ちなみに世界初のペンタプリズム搭載製品は1948年発売のイタリア製Rectaflexになります

(バヨネットマウント、クイックリターンミラー搭載)

ちなみに1952年に発売された国産最初の一眼レフ、アサヒフレックスはペンタプリズムではなく上から覗き込むタイプでした

(レンジファインダーも併設、クイックリターンミラーはⅡb(1954)から装備)

旭光学によるペンタプリズム搭載は1957年発売のアサヒペンタックスまで待たねばなりません

国産機ではMiranda Tが1955年にペンタプリズム初搭載になると思います

Zeiss Ikon Contax S その1

その後の35mm一眼レフと外見はほぼ変わらないのですがいくつか異なる点もあります

まずシャッターボタンの位置

ボディ前面上部に配置されています。斜め手前下に押し込む感じです

手指の形を考えるとこちらのほうが自然かもしれませんね

次に巻上げはレバーではなくノブを回して行います。バルナックライカはじめ当時のレンジファインダーのカメラもそうでした

かなり力を入れて回さないといけないこともあり素早く巻上げるのは難しいです

もう一点はシャッタースピードの設定・表示機構です

Leica Ⅲfなどは低速セットは別タイヤルでスローガバナーのコントロールを行いますが、Contax Sは同じノブと表示版を使い、高速/低速をボディ背面のスライドスイッチで切替えます

左にすると表示窓に赤矢印が表示され赤文字の低速、右にすると黒矢印が表示され黒文字の高速に設定されます

速度変更は速度表示板手前のノブを押しながら回して行います

低速シャッターを切るとジーっと音をたてながら速度表示板がゆっくり回転します

シャッターボタンを離すと最後に短くジっともう少しだけ回ります

この動きと音が中々味があって楽しいです

高速の場合はそのような動きはなく布幕式フォーカルプレーンシャッターとは思えないジャキっという音とともにシャッターが切れます

高速でたくさんシャッターを切ると壊れてしまいそうな感じの音です

修理屋さんによるとこの機種ではシャッター幕はほぼ間違いなく交換しないといけないそうで、その難易度も最高峰らしいです(いわゆる修理屋泣かせ)

ちなみに当機も後幕はボロボロになっていました。パーツの一部も欠損していたようで長期入院となりました

ヤフオクでは「動確」として出品されていたのですが、、、

Leicaにまつわる思い出

その昔我が家には二眼レフのカメラがあり、両親が色々な写真を撮って遺してくれました

小学生の頃、その二眼レフが盗まれ父が東京に住む友人からこのライカを譲り受けました

その頃は私はとても太っていたためか両親とも私をカメラに収めることは少なくなっていました

5年生の時に新聞社に勤務されていた同級生のお父様のアレンジで同じクラスの5人で復帰前の沖縄を「ちびっ子記者」として訪れる機会をいただきました

当時うちにはこのライカしかなく(既に製造から17年)ライカを首から下げた「ちびっ子記者」として取材旅行に出かけました

露出計すらないオールマニュアルのカメラは初めてカメラに触れる小学生には難しく、ちゃんと撮れた写真はありませんでした

その時の沖縄の記憶は断片的にしかありませんが、現地で交流会をした豊見城小学校や出席者の本部君、英語のKodakの看板が印象的なカメラ屋さん(このライカはフイルム装填も特殊で難しいんです)、米軍機の尾翼、広がるサトウキビ畑やパイナップル畑などは今も覚えています

往路は西鹿児島駅まで寝台車、その後一昼夜かけて船で沖縄入りしました。(ちなみにこの船は「ひめゆり丸」という名前でしたが後にフィリピンで貨客船となりタンカーと衝突し史上最悪とも言われる海難事故にあっています)

復路は生まれて初めての飛行機で伊丹に戻りました。機内で撮影済のフイルムをなくしてしまい(後に届くのですが…)その残念な気持はまだなんとなく心に感触が残っています

19歳で上京する際、父親から「形見や」と言ってこのライカと上記の沖縄訪問の際に父が引率の方に依頼して買ったロレックスを渡されました

実用品がまだ世代を超えて受け継がれていた頃のお話でした