Leicaにまつわる思い出

LEICA

その昔我が家には二眼レフのカメラがあり、両親が色々な写真を撮って遺してくれました

小学生の頃、その二眼レフが盗まれ父が東京に住む友人からこのライカを譲り受けました

その頃は私はとても太っていたためか両親とも私をカメラに収めることは少なくなっていました

5年生の時に新聞社に勤務されていた同級生のお父様のアレンジで同じクラスの5人で復帰前の沖縄を「ちびっ子記者」として訪れる機会をいただきました

当時うちにはこのライカしかなく(既に製造から17年)ライカを首から下げた「ちびっ子記者」として取材旅行に出かけました

露出計すらないオールマニュアルのカメラは初めてカメラに触れる小学生には難しく、ちゃんと撮れた写真はありませんでした

その時の沖縄の記憶は断片的にしかありませんが、現地で交流会をした豊見城小学校や出席者の本部君、英語のKodakの看板が印象的なカメラ屋さん(このライカはフイルム装填も特殊で難しいんです)、米軍機の尾翼、広がるサトウキビ畑やパイナップル畑などは今も覚えています

往路は西鹿児島駅まで寝台車、その後一昼夜かけて船で沖縄入りしました。(ちなみにこの船は「ひめゆり丸」という名前でしたが後にフィリピンで貨客船となりタンカーと衝突し史上最悪とも言われる海難事故にあっています)

復路は生まれて初めての飛行機で伊丹に戻りました。機内で撮影済のフイルムをなくしてしまい(後に届くのですが…)その残念な気持はまだなんとなく心に感触が残っています

19歳で上京する際、父親から「形見や」と言ってこのライカと上記の沖縄訪問の際に父が引率の方に依頼して買ったロレックスを渡されました

実用品がまだ世代を超えて受け継がれていた頃のお話でした

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